以下は2011年に社会貢献支援財団の社会貢献者表彰の候補者に、JOMASがシスター根岸を推薦させていただいた時のシスターからのお手紙です。

さて、履歴やお仕事など言われますと穴に入りたくなります。まさに私は小さい者で何もしていないからです。ただただ福音の為になるのでしたら、という思いだけがこれを書かせています。

私は群馬県の高崎で生まれました。県立高崎女子高を卒業し、白百合学園英文科を卒業、銀行に勤めながら上智大の神学講座に通い、その後修道会に入会しました。その後、玉川学園大学教育学部の通信教育を受け、1974年に修道会からアフリカ宣教女として命じられ、現在にいたっています。最初アイルランドに行き一年、その後ナイジェリア、そしてシエラレオネとアフリカ宣教は36年目になります。

アフリカは好きで来たのではありません。私は聖フランシスコが大好きな聖人でした。彼が、なんといいましたか度忘れしましたが、よく言います「ライ病」です。それが大嫌いで逃げて歩いたそうです。しかしある時、彼はその病気の人に近づき、治療してさしあげ接吻をした時、最高の喜びを感じたという章を読み、若かった私は、その時何がいやで逃げ出したいか考えた時、アフリカに行く事でした。ライオン、へび、人食い、マラリアなどうれしくない事が頭に浮かび、ふるえあがる思いでした。それで「よしチャレンジだ」と思い志願しました。

でも来て見ましたら、どこも住めばふるさと、今では離れられない第2の故郷になってしまいました。それにライオンなど見た事はありませんし、蛇はたくさんいますが襲われた事はありません。マラリアだけがちょっときびしいですが、それでも皆様のお祈りのおかげでくぐりぬけ、この通り元気でおります。これが私のアフリカに来た理由でした。お恥ずかしい話です。

もう少し足しますと、怠け者の私は自分から犠牲を探す事をしませんので、いやでも耐えなければならない方を選びました。暑さ、不便、等々。でもこれも住めば都、私はいつも恵まれています。

ここアフリカでは教育専門です。最初はOLG中学の教師として、1996年からは責任者として、そして戦争でジャングルに追い出され3日目に反乱兵士に捕まり殺されるはずでしたが、マリア様のおとりつぎで奇跡的に助かり、1998年に一時国外脱出しまし た。

その後、今度はとても寒いロシアのサラトフに派遣され、零下の毎日を体験しました。75年ぶりのロシア聖体大会には、たった一人の日本人宣教師として参加出来ました。シベリアの殉教者記念祭にも参加しました。零下40度でした。カザフスタンに教皇様がいらっしゃった時は、ロシア代表として一緒に連れて行ってもらいました。とても有意義な体験で感謝しています。

そして2002年、全くなくなってしまったミッションをゼロから始める為、アフリカに戻ってきました。シエラレオネは貧しく食事も不十分でしたので、生徒全員に給食もはじめました。それは1987年から現在にいたるまで続いています。これは私の業ではなく神様の現代の奇跡です。その協力者は日本の善意の多くの皆様です。私はただのかけはしにすぎません。2002年に始まりましたミッションも、皆様の御支援のおかげで毎年進歩し、戦前よりずっと良くなりました。生徒の数もどんどん増え、新しい中学を2007年に創立しなければなりませんでした。

現在私はどちらかといいますと、見放された女性の教育のお手伝いをしています。貧しくて小学校にも行けなかった娘、身体が不自由で教育を受けられなかった娘達、学校の途中で妊娠して退学を命じられた生徒などを集めて職業センターを1990年から開きましたが、今はその校長として働いています。男性にだまされ子供を産み、誰からも助けて頂けないこれらの生徒はいろいろ問題を持っていますが、せめて手に職をと教えています。現在、洋裁科、美容科、家政科、秘書課、基礎科などに分かれ、それぞれがんばっています。自分ではほとんど授業料も支払えない生徒達、 病気になればお医者にも行けない生徒達です。でもやさしい日本の方々の支援でどうにかここまでやってこられました。感謝です。

日本の善意の皆様に心から拍手を送りたいです。私ではありません。私はただここに存在するだけです。ただ神様に愛されている皆様に愛されているという幸せを、毎日味わわせていただいています。

根岸

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