援助先からの手紙

2015年6月 ネパールからのお便り

ネパールのシスター金谷から、お手紙と写真が届きました。

--------2015年5月25日

地震とその後・・・バンディプールでは・・・

心配して下さった皆様にようやくこちらの様子をお伝えする時を得ました。微震もほとんどなくなり、落ち着いた日常に帰ろうとしています。皆様のお祈り、ご支援に心から感謝を申し上げます。

4月20-21日にノートルダム校では職員会議を持ち、22日、23日と新学期開始をしたばかりの学校は、新調した制服を着て喜びに輝く新入生、編入生を交えて賑やかな、楽しい雰囲気に包まれていました。しかし、新学期の緊張を癒す良い休みとなる筈の連休に、突然大地震が発生したのです。4月25日正午頃でした。激しく、長い揺れが続いて、石造りの修道院の中にいた3人のシスター達も、驚いて外に飛び出しました。外では、人々の驚き騒ぐ声が飛び交い、トタン屋根や家屋の軋む音が続いていました。しばらくして揺れは収まりましたが、町はずれにあるセトグラス保育園付近の家々が軒並み倒壊したという知らせが届き、見に行きました。完全に倒壊した家々が道を塞ぎ、近づくこともできません。足の踏み場もないような道を遠回りしながら漸くセトグラス保育園に辿り着くことができました。

保育園は煉瓦とセメントで造られていて、倒壊は免れていました。地震発生時は、長く強い揺れの中、家が潰れて土煙で周りが見えない中を人々は畑の空き地に逃げ出すことができ、バンディプールでは一人も死者やけが人は出ませんでした。市役所からも直ぐに3日間の食糧配給の手筈がなされ、セトグラス保育園が炊き出しの場となり、避難宿泊所ともなりました。その後も日に何度も余震が続き、時にはかなりひどいものがありました。エベレスト付近にまた大きな地震が起ったとの事でした。皆の不安は募る一方でした。カトマンズやゴルカ地方その他の恐るべき被害も耳に入ってきました。多くの人々は、ひび割れした家で寝るよりは、テントを張って外で寝たほうが良いと考え、毎晩野宿していました。

地震発生当時、カトマンズへ向かっていたシスター金谷と中薮先生はバスの中で車体の揺れと地震の揺れが区別できず走り続けていましたが、ある小さな村に差し掛かった時に、村人たちが大騒ぎをして地震だ、地震だと泣き叫んでいました。それでも家畜小屋が崩れたくらいのものだと思っていました。バスの乗客たちは皆降りてどうなる事かと見ていましたが、知らない土地を逃げ惑う訳にも行かず、止めていたバスのすぐ近くに地割れの筋が見えたので、止まっているよりも走ってカトマンズへ着いた方が良いと考え、バスはひたすら走り続けました。道のあちこちで家が崩れ、土煙が上がっていました。カトマンズに入る山頂のチェックポストでは逃げてきた近所の人達、バスの乗客等が右往左往して溢れていました。ポリスマン達が人々を一か所にまとめ、車が通れるようにしていました。バスはそのチェックポストをすり抜け、カトマンズの入り口カランキまで辿り着きました。

ここではもっと多くの建物が倒れ、人々は溢れ返り、男の人が町に入るなと大声で叫んでいました。町では電線が落ちでいてもっと危険だというのです。しかしバスの乗客は皆カトマンズに用事があり、又カトマンズ空港から帰国する人たちでしたので、終着点まで走り続けました。そこから乗客はそれぞれの目的地に向かっていきました。病院の前には運ばれてきた怪我人や入院患者が運び出され、家から飛び出した人々と、逃げて帰るにも手立てのない人々で広い道路は溢れていました。バスやタクシーは業務を停止していました。

中薮先生とシスターは、目的地のセントザヴィエル校まで、多分1キロはあるだろうと覚悟して歩き始めました。道端には電線が何本も落ちていました。それを跨ぎ、道の片隅を歩き始めて、先生は銀行の自動現金引き出し所を見つけ、物は試しとやってみると、なんと望んだ現金が出てきたのです。こんな大地震の時にも、ATMは働くのかと感心しましたが、それはその時だけでした。その後、どの銀行もコンピューターや書類棚などが倒れ、電線は切られ、すべてのオフィスや店は閉まり、カトマンズ市内は交通手段も断たれて、大問題に陥っていました。二人はひたすら歩いて、漸くの思いでセントザビエル校にたどり着いた時には先生の万歩計は既に5キロを歩いたことを示していました。

翌日、パタン旧王朝街のクリシュナ寺院や宮殿の一部が崩壊したこと、ビンセン塔が折れて多くの死者を出したこと等が報じられていました。中薮先生は健脚に物を言わせてそれぞれの場所を見て回り、カメラに収められましたが、その他多くの学校も倒壊してしまい、町は恐怖に陥っていました。すべての店が閉められている中、平素行きつけの店の人は二人を中に入れてくれました。店内はあらゆるビン類が床に落ちて飛び散っており、辛うじて棚に残っているパンやチーズを買う事ができました。どの店も家の中も、皆このように物が落ち、飛び散っているのだろうと想像することができました。シスターは教科書を買う目的がありましたが、棚から本が落ちて山のようになっている上に、店員たちは自分の故郷の惨事を見舞うために帰ってしまったという事で、業務はいつ再開できるかわからない状態でした。

さて、政府はこの大事に当たり、国民は皆一週間の休業、休校を取り、喪に服すとともに余震に備えるようにと報じました。 絶えず余震が来るために何も手につかないのが実情で、家屋の 崩壊した人々はボランティアと共に家の取り片付けをしていました。その一週間が過ぎて、漸く学校を再開しましたが、二日目の昼休みにまた余震が来て、生徒を運動場に集め、迎えに来た保護者の手にゆだねて帰すことになりました。以後、心配した保護者が休校を続けるようにと談判に来るなど、余震以外の余心配もあって、なかなか落ち着かない日々が続きました。5月11日の週に入って初めて余震の感じられない日が続いています。雹に降られたり、突風に曝されてトタン屋根を持って行かれたりの出来事は数日おきに起こっていますが、地震の恐ろしさに比べれば、何も文句は言えない有り様です。

さて、救援に関しては、地元の自治体も積極的で、各地を廻って被災者を調べています。3日間の食糧と見舞金を出し、当座の援助をしましたし、地元の人々やバンディプール出身の人達が引き続き救援物資をもって援助に駆けつけました。高校生たちは瓦礫を取り除く手伝いをしたりしました。シスター達もテント生活を見て回り、床に敷くカーペットや布、ローソク、ライターを配り、植物性たんぱくになるおやつを配ったりしています。今後どのように援助するかを検討して、取り敢えず仮宿泊所を作るトタン屋根や竹を支給しています。次の段階として、かまぼこ小屋を作るために骨子を寄付する地元出身の篤志家と地元婦人グループのトタンを寄付するグループと協働で、シスター達はレンガとセメントで床を作ることを援助することにしました。先ずは64軒が申込んでいます。この煉瓦が、本当の家を作るときにも使えるようにと考慮しています。その時にはもっと多くのレンガが必要になってくると思いますが、現在目に見えて援助できる範囲を着実に進めていくことにしています。

シスター達は、倒壊した無残な家々の姿や、取り敢えずの仮小屋を建てる様子を見て、我がND校は石造りのしっかりした校舎で心配ないと思っていましたが、灯台下暗しでした。落ち着いてよく見ると、既に地盤沈下で出来ていたひび割れに地震でできた新しいひび割れが加わり、安心して勉強できない教室があるのに気が付きました。職員寮や学生寮も壁のヒビ割れや壁と柱の間に隙間ができて、修理の必要なところが目につきます。そのため、現在は大急ぎで校舎の修理に取り組んでいます。職員寮はネパール式の家で修理に時間が掛りそうです。

昨日、アメリカのシャトルに住むND卒業生がハンバーガーを売って寄付金を集め、倒壊した家屋のために送ってくれました。日本でもアメリカでも心を合わせて援助に取り組んでくださっています。倒壊して痛手を負った人々は、長い間身分差別を受け貧しさの中に生きてきた人々でしたが、この度の出来事で、地元をはじめ世界中の多くの人々の温かい援助を経験しています。 彼らの新しい、清潔な家を建てることが でき、心にも温かい灯がともされることを希望しています。この大きな試練を踏み台に、人々が神様の恵みと人々の愛を感謝できるようになりますようにと祈っています。

皆様のご支援に心からの感謝をこめて

シスター・金谷美代子



シスター金谷から その後のお手紙

5月28日から3日間、カトマンズへいっておりました。カトマンズの被害も大変大きかったのですが、町は一応片付いておりました。家を失った人たちが町の大広場にテントを張って住んでいましたが、町にも田舎にも家が無くなり、希望がないような人たちの様子を見て心が痛みました。カトマンズの保育園の先生達の家を一軒ずつ訪問しましたが、一人の家は完全に崩壊してトタンに囲まれた仮住まいで生活していました。もう一人の家は形を留めていますが、ハリにも天井にもひびが入ってとても危険な状態でした。形を留めているだけに何の援助もうけられなくて、竹とビニールを張っただけの仮住まいで夜を過ごすのだと言っていました。皆、寝ている時に地震が起こるのを恐れて、夜はテントの下で寝るのです。今日、6月1日からすべての学校が再開するので、保育園もようやく再開しますが、何人戻ってくるかわからないという事でした。

被害者援助のために戴いた御寄付で、バンディプールでは少しずつ復興のお手伝いができるようになりました。最初は、国や自治体の動きを見なければならなく、地元や人々の援助が続いて食品などの配給が有ったりしました。今は、3つのグループで65軒に仮住まいの家を調達することになり、私たちはそのためのレンガとセメントを寄付することに決めました。既に6つの仮屋が建てられたという事ですが、私はカトマンズへ行って居たためにまだ見ることができていません。