ボリビア・オガールファティマのシスターたち 社会貢献者表彰受賞

ボリビア、オガールファティマにおけるイエスのカリタス修道女会の邦人シスター達がJOMASの推薦により、公益財団法人 社会貢献支援財団の平成26年度社会貢献者表彰の受賞者に決定いたしました。
表彰式は12月1日、修道女会からは日本におられるシスター19名が出席されます。
1990年当時の悲惨なボリビアの孤児たちを生かすため、懸命に世話をしたシスター方の活動を、施設長であるシスター立石が文章にして送って下さいました。

オガル・ファチマ孤児院の23年間の歴史

1990年1月カリタス修道女会の総長の正式訪問があった。サンタ・クルス州で働く姉妹たちを訪問すると同時に、この地の大司教様方を表敬訪問した。この表敬訪問の際、サンタ・クルス県庁福祉課ONAMFAの責任者アナ・ニネット・カポビアンコ婦人より相談を受けていたティト・ソラリ補佐司教様が、オガル・ファチマの運営管理を私たちの修道会に委ねたいと話された。

予定外の依頼を受けた総長一行は、オガル・ファチマの現状把握のため現地に足を運んだ。ちょうど昼食時で、食堂に集められた子どもたちの前には中身のない薄いス-プだけの昼食が並べられていた。訪問者を見つめる子どもたちの目には喜びもなく生きる力も失せていた。助けてほしいと訴えている目でもあった。

何を優先すべきかを考えながら、コトカのマリア様の巡礼へ出かけ、神のみ旨を祈った。その帰り道、運転していたシスタ-の「わたしで良ければあの子どもたちのために働きます。」との一言が、オガル・ファチマ孤児院を引き受けるきっかけとなった。その足で大司教館に戻り、ティト司教様にオガル・ファチマを引き受ける旨を伝えた。この時、司教様は、県庁福祉課の責任者アナ・ニネット・カンポビアンカ婦人の悩みを赤裸々に話された。一般の人に運営管理を任せているが、子どもたちの食事も事欠き、養育環境も悲惨極まりないと。

1990年8月15日 大司教様とカリタス修道女会総長との契約が成立し、2名の修道女、シスター樽角とシスタ-末吉がオガル・ファチマに入り、12月にはシスタ-有川も日本から到着して、ここでの仕事が始まった。

経済的基盤もなく、衛生環境が整っていないオガル・ファチマに140名の乳児、幼児、児童・学童が住んでいた。最初の2年間は政府の補助金は一円もなかった。ただ毎日の食料が支給されただけだった。それも市場で売れ残りの野菜とバナナ、虫が入ったフレホ-ル豆類だった。毎日、子どもたちと一緒に支給された野菜の中から使えるものを時間をかけて選り分けた。これ以外に食料がなかったので・・・。赤ちゃんの粉ミルクは支給されたが、その量は非常に少なく、買い足さなければならなかった。しかしお金はなく、お金を借りたくても貸してくれる人もおらず、その時の苦しみは、乳飲み子を持つ貧しい母親の苦しみに等しかった。途方にくれた2人のシスタ-は、頼る人もいないこの宣教地で、最後の助け舟を求めてフランシスコ会のパ-ドレをた ずね、泣きながらミルク代を貸してくれるように願った。パードレは私たちをジ-プに乗せて店まで連れて行き、必要な量を車に積むように言われた。パ-ドレは私たちの苦しみを理解し、この上ない助けの手を差し伸べてくれた。こうして多くの赤ちゃんの命が救われた。90パ-セント以上の子どもたちが栄養失調症なのに救うすべを見出せない日々が続いた。幼い命があっけなく消えていくという悲しみをこんなに頻繁に体験をしたのもここボリビアだったと二人のシスタ-は語る。

この当時、ボリビア国全体が貧しく、サンタ・クルス州も商業都市とは言え、働けど楽にならない貧しさは市民生活を悲惨なものにしていた。たった一人の子どもを育てるのも困難を極め、母親の愛ゆえに自分の子どもを捨てるということも起こっていた。誰かが拾って育ててくれるという他者への信頼以外に救う道がなかった時代だった。こういう状況下にあって、オガル・ファチマに入所した子どもたちは、もともとひ弱に生まれ、その上親から捨てられたという精神的ショックで病気に罹りやすく、高熱を出したり、嘔吐するなど、すぐ重病になり病院へ連れて行かなければならなかった。病院に行く途中に、あるいは診察を待っている間に、シスターの腕の中で病に勝てず天に召されていった赤ちゃんが何人もいた。悲惨な経済状況を物語るように、1990年の後半から1992年にかけて20数名の赤ちゃんの命を守ることができず、天に送ることになった。現在オガル・ファチマの墓地には40数名の幼いいのちが眠っている。

亡くなった赤ちゃんを葬るために墓地へ行ったシスタ-は、「墓地の中の道端に埋めろ」と言う墓地の管理人の無残な言葉に、赤ちゃんを抱いたまま泣きながら市役所へ訴えに行った。そこでも孤児院の子どもたちの埋葬の場には非常に無関心で、必死の訴えにも関わらず、「親から捨てられた子どもは道端に捨てておけ」とのひどい言葉が返ってきた。この時のシスタ-の墓地交渉は涙の爆発交渉になった。「ボリビア人の子どもです。犬、猫ではないのですから道端には葬られません」と、不完全なスペイン語でまくしたて、その甲斐あって、どうにかオガル・ファチマの子どもたちの墓地をいただいた。

このオガルを引き受けた当初、衛生環境はひどいもので悪臭の漂う中で140名の子どもたちは生活していた。各棟に一基のドイレとシャワ-で、朝の起床時の用足しは、自然に庭の片隅がトイレに早変りし、道行く人さえもその悪臭に鼻をつまんだようだ。2,3年後、パンの寄付をもって訪れた人が「ここはゴミ捨て場で、あまりにひどい悪臭で避けて遠回りをしていたが、今はずいぶんきれいになりうれしい」と。その頃、寝室は140名を収容するために2段ベットで陽も当たらず、子どもたちの心も曇り続けていたようである。

少ない職員での子どもの世話には暴力的要素が伴い、子どもたちはいつの間にか声を出さなくなっていた。職員の問題は子どもの成長障害をもたらしていた。子どもがあまりに幼いため、職員4名はどうしたらいいかわからないまま、どなったり、棒を振り回したり、履物を投げたりしながら、どうにか140人の世話をしていたようである。職員が子どもに話しかけることも少なく、特に赤ちゃんから2歳児までの時期に大人の言葉かけがないまま育った子どもたちの多くが、3歳になっても「ママ」「パパ」も話せなかった。これが職員不足による子どもの大きな成長障害であった。 一番大切な成長期の障害を一日も早く解消するよう職員増員のため職員給料の支援を願う必要があり、JOMAS曽野綾子氏に依頼、17名1年間の給料を申請して、この難所を乗り越えることができた。この一時的な解決策は子どもたちに大きな効果をもたらした。話せなかった子どもが話すようになり、オガル・ファチマに今まで聞こえなかった赤ちゃんの鳴き声や子どもたちのはしゃぎ声が響くようになった。この喜びは職員の資質向上への対策を考えるきっかけになり、モンテッソーリの講師を探し、職員全員に園内での養成を実践する運びになった。それと共に子どもたちにも学びの喜びを与えることができた。

支援してくださる人がなければ、今のオガル・ファチマは存在しなかったと思う。現在でも政府の補助金は微々たるもので、とても運営できる状態ではない。JOMAS曽野綾子氏からの森永粉ミルクの支援は、その当時から今に至るまで多くの子どもたちの成長を助け、尊い命を救ってくれている。曽野先生ご自身が「森永ミルクをボリビアの子どもたちにもどうですか」と救いの声をかけてくださったのだった。このミルクのおかげで病院に入院する子どもは驚くほど減った。このミルクのおかげで子どもたちは活発になり、子どもらしい表情も喜びも全身にあふれるようになり、遊びもできるようになった。これらすべては私たちに最高の喜びと子どもたちと共に生きる力を与えてくれている。

現在でも支援が途切れると財政的に蓄えのないオガル・ファチマは、運営管理を続けることは出来ない。これからも多くの善意ある人々に助けられ、支えられて、ここオガル・ファチマの子供たちは元気に育っていくのだろう。